日本のコミュニケーションの真髄を示す言葉といえば「和」です。
松下幸之助いわく「日本は和の国、和の心を忘れれば倒産する」
日本人にとってあまりに当たり前の「和」ですが、その由来を御存知だったでしょうか?
「和」の由来は案外と謎に満ちています。今回はその起源を探ってみることにしましょう!
今から1300年前、元明天皇の時代に武蔵国秩父郡でニギアカガネが発見され朝廷に献上されました。ニギアカガネとは自然に産する純銅のことで、漢字では「和銅(ニギアカガネ)」と書きます。これを大いに喜んだ元明天皇は、直ちに元号を「和銅(ワドウ)」に改元した上で、和同開珎の発行を決めました。西暦708年の出来事です。
日本最初の流通貨幣として有名な和同開珎ですが、その発行には恐らく2つの目的がありました。1つ目は資金調達です。おりしも同じく708年(和銅元年)には平城京遷都の詔が出されており、遷都計画の黒幕・藤原不比等は膨大な資金調達の必要性に迫られていました。実際に平城京への遷都が行われたのは710年ですが(奈良時代の始まり)、資金が必要な時に偶然に和銅(ニギアカガネ)が発見され和同開珎の発行に至ったとすれば慶事です。しかし恐らく真相は逆で、資金が必要だったからこそ和銅発見と元号改元という演出を経た和同開珎の発行に至ったのでしょう。その証拠に、秩父産の自然銅と成分が一致する和同開珎は今日、発見されていないのです。
しかも最初期に発行された和同開珎(古和同)は銅銭ではなく銀銭でした。この少し前、朝廷は富本銭という銅銭の発行を試みて失敗しています。人々は貨幣(お金)に慣れていなかったのです。当時、お金の代わりに流通していたのは秤量された銀の地金(無紋銀銭)でした。そこで藤原不比等は、無紋銀銭を古和同に置き換えるという形で(即ち銀本位制を装って)新しい貨幣の浸透を狙いました。そしてこの銀銭を追いかけるように新しいデザインの銅銭(新和同)を発行するのです。
デザインが洗練された中国風の新しい銅銭には、銀銭との公定交換レートで銅地金の約25倍もの価値が付与されました。そして銀銭は1年程度で実質的に廃止され、発行者にとって「儲け」の大きい銅銭だけが日本最初の流通貨幣として50年以上も発行され続けることになるのです。実は、今日ごく少数ながら古和同タイプの銅銭も発見されています。新旧の銅銭を比べると厚みや純度の差によって新和同の銅の使用量が古和同の銅の約半分に減らされており、和同開珎の発行の最終的な目的が資金作り(今日の赤字国債の乱発に少し似ている?)にあったことを伺わせます。例えば、平城京の建設に駆り出された労働者には賃金として和同開珎が支払われましたが、政府が付与した価値(地金の25倍)では市場で流通しなかったため、十分な食糧が買えずに餓死する者が多かったといわれます。
ところで、和銅(ニギアカガネ)が発見され、年号が和銅と改められたのに、発行された貨幣が和銅開珎ではなく和同開珎だったことは少し不思議な気がしますが、恐らく当時の鋳造技術の未熟のため、画数の多い「銅」の代わりに「同」を使ったのでしょう。これは古代鏡の銘文でも見られるやりかたです。同様の理由で、お手本にした中国通貨「開元通寳」の「寳」の代わりに「珎」を使いました。今日、和同開珎の読み方が「ワドウカイホウ」であるのか「ワドウカイチン」であるのか論争があり「ワドウカイチン」説が優勢だと聞きますが、お手本が開元通寳(カイゲンツウホウ)であるのなら、和同開珎もワドウカイホウと読むべきことに疑問の余地はないと私は思います。
このように和同とは和銅(ニギアカガネ)に由来する言葉なのですが、時代背景を考慮すると、もう少し深い意図があった可能性も見えて来ます。それは、貨幣こそが普通の人々が初めて日常的に目にし、手にする文字媒体だったということに由来するものです。古代、中国では日本を「倭(wa)」と呼びならわしていました。waは日本人の一人称に由来する音ですが(我が国のwaなどに名残がある)、それに当てられた倭という文字は必ずしも好字ではありませんでした。そこで、自分達をwaと自称しながらもまだまだ識字率が低かった当時の人々に、「日本国内でも銅が見つかった!」と広報して「和同」と書かれた貨幣を流通させれば、日本=wa=和というイメージが定着していくに違いない! そんな意図が和同開珎の2つ目の発行目的だったに違いないのです。実際、都がある地域を「和/大和」と呼びなさいという指示が同じ頃に朝廷から出されています。
更に同じ頃、天武天皇(「日本」「天皇」という言葉を定めたと言われる天皇)が始めた日本書記の編纂作業が順調に進んでいました。この日本の国号を冠した歴史書の中に聖徳太子の十七条の憲法の話が出てきます。本当に聖徳太子が実在し十七条の憲法を定めたのかどうかは未だにはっきりしておらず、少なくとも日本書記を編纂した段階で、理想の国家像を示すエピソードとして潤色されているというのが通説ですが、この十七条の憲法の第一条冒頭が「以和為貴(和をもって貴しとなす)」なのです! やはり、当時の関係者の「和」への強い思いが感じられます。
因みに、論語には「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」というくだりがありますが、皆さんは人生においてどちらの道を歩まれるでしょうか? 権力ある立場からは、「さあ皆さん、和して同じて、強い日本を作りましょう!」と呼びかけたい意図があったに違いありません。そんな時期に秩父で和銅が発見されたことも、日本で最初の流通貨幣の名前が和同開珎であったことも、決して偶然であった筈はないのです。こうして私達は「日本人」「日本国」「和をもって貴しとなす」というアイデンティティを持つ民族となったのでした。そしてもしかしたら「和して同じて流れに逆らわない」という弱点も・・・ 吉川