和の国・日本の成り立ちを考える時、邪馬台国が何処だったのかという問題を避けて通れません。
場所は謎とされていますが、魏志倭人伝を誰かの出張報告書として読めば謎は簡単に解けます。
さあ、Googleマップを開いてみてください。これから邪馬台国への旅に出かけましょう!
<出張報告・その1>
「倭人は朝鮮半島の東南にある大海の只中の山島に国や町を作っています。朝鮮半島の海岸に沿って水行し、南へ行ったり東へ行ったりしながら、まずは狗邪韓国に着きました。ここまでの距離は七千余里です」
ここからいよいよ海を渡り、大海の只中の山島である日本列島に向かいます。
<出張報告・その2>
「ここで始めて海を渡り、千余里で対馬国(長崎県対馬)に着きました。その大官は卑狗といい副官は卑奴母離といいます。住む所は絶海の孤島で、およそ四百余里四方です。土地は山が険しくて深い林が多く、道はけもの道のようです。人口は千余戸です。良田はなく海産物を食べて自活しています。船で朝鮮半島や九州に行き米を買い入れています。対馬国からはさらに南に海を渡りました。千余里で瀚海という大国(長崎県壱岐島)に着きました。大官は卑狗、副官は卑奴母離といいます。およそ三百里四方。竹、木、草むら、林が多いです。人口は三千戸でいくらかの田地がありますが、田を耕しても住民を養うには足りないので、対海国と同様に米を買い入れています」
対馬と壱岐は島ですから場所ははっきりしています。報告内容にも特に問題はありません。次は九州に上陸です。
<出張報告・その3>
「また海を渡りました。千余里で末盧国(長崎県松浦市)に着きました。人口は四千余戸で、山と海すれすれの場所に住んでいます。草木が盛んに茂っていて、歩くときは前の人が隠れて見えないほどでした。魚やアワビを捕ることが上手で、皆、水に潜って取っています。この末盧国から東南に陸上を五百里行くと伊都国(福岡県糸島市)です。大官は爾支、副官は泄謨觚、柄渠觚といいます。人口は千余戸です。代々王がいて、女王国に従属しています。ここは帯方郡の使者が往来し、常に足を止める所です」
使者の旅について来られましたでしょうか? ここまではそれぞれの地名が示す場所がはっきりしています(対馬、壱岐、松浦、糸島)。方位や距離も概ね正しいようです。しかし末盧国(松浦市)から見た伊都国(糸島市)の方向だけが90度狂っていたことにお気づきだったでしょうか? Googleマップで見ると、糸島市は松浦市の東南ではなく東北に位置しています。報告書の記述は明らかに間違っているのですが、それは何故だったのでしょうか? ここで注目すべきは風景描写の変化です。末盧国までの「道はけもの道のようである」「竹、木、草むら、林が多い」「草木が盛んに茂り」等の生き生きした記述が、伊都国からは責任者の名前や人口だけを列記した単調なものに変わっています。もしこれがあなた御自身の部下の出張報告書だったら、「こら! 君はさぼって末盧国までしか行かなかったのだろう!」と叱るべき所でしょう。方位が90度ずれているのは、実際に現地に行かず聞き書きで済ましたからに違いありません。当時、紙は貴重品でしたから、恐らくは地面に木の小枝か何かで砂絵でも描きながら、通訳を介して不自由な取材をしたのです。まともな地図はありません。そして朝鮮半島から倭を目指して船で南下して行ったあなたの部下には、「日本の奥地は南に広がっている」という思い込みがあったのです。しかし実際には西日本は東に向かって伸びていますから誤りが生じることになります。ですから邪馬台国に辿り着くためには、ここからは報告書を全て反時計回りに90度修正して読まなければなりません。
<出張報告・その4>
「伊都国から東南ではなく東北に向えば奴国(福岡県福岡市)です。距離は百里です。大官は兕馬觚、副官は卑奴母離といいます。人口は二万余戸です。奴国から東ではなく北に行けば不弥国です。距離はやはり百里です。大官は多摸、副官は卑奴母離といいます。人口は千余戸です。不弥国から南ではなく東に行けば投馬国です。距離は水行二十日です。大官は弥弥、副官は弥弥那利といいます。人口はおよそ五万余戸です」
90度の修正をすれば伊都国(糸島市)から奴国(福岡市)への方位も合っています。次の不弥国がどこだったのかは今日では不明なのですが、福岡市から東ではなく北方に百里(糸島市から福岡市と同じくらいの距離)行けば宗像市にぶつかりますから、宗像市が不弥国だったのだろうと推定されます。実際、そこから使者が舟に乗り換えていることからも宗像大社(航海の守り神)が鎮座する海沿いの街・宗像市がピッタリです。そして宗像市から南ではなく東に水行二十日という距離は、後の土佐日記等に出てくる舟旅の速さなどを参考に、岡山県の辺りだったと考えられるでしょう。そこに在った吉備の国こそ、およそ五万余戸もあったという大国・投馬国だったに違いありません。次はいよいよ、更に大きな女王の都・邪馬台国に向かいます。
<出張報告・その5>
「投馬国から南ではなく東にいけば邪馬台国です。女王の都です。距離は水行十日です。陸行はひと月。大官に伊支馬があり、次は弥馬升、弥馬獲支、奴佳鞮といいます。人口はおよそ七万余戸です」
宗像市から東に水行二十日で岡山に着くなら、岡山から更に東に水行十日で行き着けるのは大阪あたりです。実はこの頃、大阪の市街地は海面下にあり、海は藤井寺市の辺りまで入りこんでいました(後にこの周辺に築かれたランドマークが有名な大古墳群です)。舟を降りて少し足を延ばせば、そこには大和の国の纏向(まきむく)遺跡があります。この纏向こそが幻の邪馬台国だったのでしょうか?
ここで問題になるのは報告書にある「陸行はひと月」という一文の意味です。自分の部下なら呼びつけて真意を問いただしたいところですが、解釈は2通りあり、①舟を降りた場所から更に陸行ひと月進んだ、②宗像から邪馬台国までが水行なら三十日であるところ、陸行でもひと月だと言い換えている、で論争があります。しかし仮に①の説を採るならば、ひと月分もの行程に関する説明が全くないのは不自然です。ですから「陸行はひと月」は「陸行でもひと月」と読み、②説で解釈するのが妥当ではないでしょうか。何故なら、改めてこの時の魏使の出張目的を振り返ると、倭を味方に取り込みながら、各地の人口、責任者の名前、そして軍隊を移動させたらどれくらい日数がかかるかということを調査し報告するという使命があった筈だからです。当時の中国大陸は三国志にも描かれた混乱の最中にあり、魏は呉や朝鮮半島北部の勢力との戦いで苦戦を強いられていました。そんな時、朝鮮半島の背後に位置する倭の動静は重大な関心事でした。魏志倭人伝は物見遊山の旅行記などではなく、魏の国運を賭けた大切な出張の報告書だったのです。
<出張報告・その6>
「女王国より以北は、その戸数や距離のだいたいのところは分かりますが、その他の国は遠くて情報もなく、詳しく調べることは出来ませんでした」
末盧国までしか行かなかった使者たちは仕事を放り出して何やら言い訳してますね・・・。あと一歩で結論が出そうですが、これ以上の分析は難しいので、ここからは考古学的に大和国の状況がどうだったのかを見てみなければなりません。
大和の纏向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)というのはとても不思議な遺跡です。日本各地で作られた土器が一か所から出土するという異様で大規模な遺跡でありながら、発掘されたのは祭祀の建物ばかりで人の住んだ集落がまだ見つかっていません。それだけ全体の広がりが大きかったということです。この不思議な大遺跡を見下ろしているのが聖地・三輪山です。美しいピラミッド型の三輪山は日本最古の神社とされる大神神社の御神体です。実は纏向遺跡は三輪山を遥拝するための都市だったと考えられているのです。そしてもう一つ、纏向遺跡には箸墓古墳という大きな前方後円墳があります。前方後円墳は日本独特のものですが、箸墓古墳はその最初のものとして、しかもいきなり異常に巨大な古墳として、3世紀(卑弥呼の時代)の纏向に突然現れます。日本最古の埴輪さえ伴うこの特別な古墳こそが卑弥呼の墓だったのでしょうか? 残念ながら発掘は許可されていません。因みに卑弥呼の後継者は台与(トヨ/イヨ)ですが、それなら邪馬台国はヤマトコクでいいじゃあないかって?
結論はともかくも、今回お伝えしたかったのは権威あるものや常識に流されず自分で事実を見て考えることの大切さです。それはコンサルティングや会社経営の在り方でも言えることでしょう。長くなりましたので続きはまたいつか。吉川